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親孝行したいときに親はなし

作者: 西禄屋斗

「では、こちらにお名前をお願いします」


 オレよりも年下に見える、若くて可愛らしい感じの女性看護師に促され、いささか緊張しながらボールペンを手にした。面会者名簿に『渡邉わたなべ章嗣しょうじ』、と自分の名前を記入する。


 我ながら何て汚い字なんだろう、と名前を書きながら思う。ここでひとつ言い訳をさせてもらえるなら、とにかく画数の多い漢字がいけない。どうしてウチは簡単な『渡辺』でなく、わざわざ難しい『渡邉』などという字で書くのか。


「四〇四号室の渡邉さんの御家族ですね。どうぞ」


 小学生よりも酷い悪筆を看護師に笑われやしないかと心配しつつ、オレは母ちゃんのいる病室へ向かった。


 ちょっと入院する、という電話を母ちゃんからもらったのは、確か三日くらい前だったと思う。


 オレがまだ小さかった頃に親父を亡くし、女手ひとつ、ずっと働きながら二人の子供を育ててくれた母ちゃんは、これまでに病気らしい病気をしたことがない、とにかく健康だけが取り柄のような人だった。


 そんな病院と無縁だったはずの母ちゃんが入院すると聞いたときは、さすがのオレも驚いたが、よくよく話を聞いてみると、そんなに大したことではないらしい。ひとまずオレはホッとした。


 ところが昨日、今度は姉ちゃんから電話があった。


『ちょっと、章嗣! アンタ、母さんの見舞いにも行かないで、どういうつもりなのよ!?』


「はあっ!? 何だよ、いきなり。だって母ちゃん、大したことじゃないから心配するなって言ってたし、オレだって色々と忙しいんだよ!」


『何が忙しいのよ! 二十七にもなってフラフラして! どうせ、まだ仕事も見つかってないんでしょ!?』


「う、うるさいなぁ。久々に電話してきたと思ったら説教かよ!」


『当たり前でしょ! 普段は母さんに金をせびってばかりのクセして、こんなときに見舞いのひとつもないなんて! アンタだってもう子供じゃないんだから、いつまでも甘えてんじゃないわよ!』


 母ちゃんは昔から、姉ちゃんよりも弟であるオレのことを可愛がってくれた。姉ちゃんが割と要領よく何でも出来たのに対し、オレが何をやらせてもダメな息子だったからだろう。


 二年留年した大学を卒業してから一人暮らしを始めてみたが、仕事はすぐに辞めてしまったし、今もって再就職もままならない。オレが金を貸してくれと母ちゃんに泣きつくと、いつもではなかったが、必ず苦しいときには工面してくれた。


 とっくに親子の縁を切られていてもおかしくないのに、本当に母ちゃんはオレのことを見捨てないでくれている。三年前に公認会計士の旦那と結婚した姉ちゃんがねたむのも当然か。


『とにかく明日、母さんの見舞いに行きなさいよ! 病院だって、アンタのとこからそんなに遠くないんだし、たまには元気な顔を見せて、親を安心させてやったってばちは当たらないんだから! いいわね? 私も行くから、絶対に来るのよ!』


 というわけで、オレはこうして病院まで見舞いに訪れなくてはならなくなった。まったく、昔から姉ちゃんは母ちゃんよりも口喧くちやかましい。


 オレは何の見舞いの品も持たず、母ちゃんの病室を探した。本当は花くらい買ってくればよかったのだろうが、そんな金すらもない状況だ。


 出来れば三万円くらい金を貸してもらいたいな、と不謹慎なことを考えながら、オレは四〇四号室の前に辿り着いた。もう姉ちゃんは来ているだろうか。


 病室に入ろうとしたそのとき、姉ちゃんの大きな声が廊下にまで響いた。


「ええーっ、数パーセント!?」


 最初、何のことか、オレにはさっぱり分からなかった。姉ちゃんは何に驚いたのだろう。“数パーセント” とは、何を指す数字なのか。


「――ゴホッ! ゴホッ! うっ……ゴホォッ!」


 そのタイミングで、何処からなのかは分からなかったが、誰かが苦しそうに咳き込んでいるのが聞こえた。それはすぐに治まるような気配はなく、口から一緒に血でも吐くんじゃないか、という嫌な想像を働かせてしまう。


 すると同時に、黒いインクをうっかりこぼしてしまったかのような何とも言えない不安が、オレの胸中をざわつかせた。


 ひょっとして、母ちゃんは癌とか、そういった重い病気にかかっているのではないだろうか。だから、手術をしても助かる見込みは “数パーセント” という、まるで死の宣告に近いような診断結果が出て――


「かっ、母ちゃん!」


 オレは真っ青になって、病室へ飛び込んだ。


「あら、章嗣」


「やっと来たわね」


 母ちゃんはベッドの上で身体を起こしていた。その傍らには姉ちゃんも座っている。久しぶりに会った母ちゃんは少し痩せたみたいで、何だか身体も小さくなったような印象を受けた。


「か、母ちゃん、寝てなくて大丈夫なのかよ!?」


 こうしてオレが母ちゃんのことを気遣うなんて生まれて初めてだったと思う。そんなオレを見て、母ちゃんも姉ちゃんも面喰らったような顔をしていた。


「大丈夫よ。電話で言ったでしょ? ちょっと暑さにやられただけだって。ほら、ここ最近で急に暑くなったし。母さんもそろそろ歳かしら」


 母ちゃんは、そう言って笑顔を作った。きっとオレを心配させないようにしているのだろう。


「お願いだから本当のこと言ってくれよ、母ちゃん! オレ、しっかりと現実を受け止めるからさぁ……これからは一人でもちゃんとするからさぁ……」


 オレは泣きそうになりながら、母ちゃんの手を握り、まるで子供のようにすがった。母ちゃんがいなくなってしまう――そう考えただけで、オレは目の前が真っ暗になったような気分だった。


 ところが母ちゃんと姉ちゃんは、キョトンとしたような顔つきをしていた。オレがどうやって母ちゃんの病状を知ったのか、不思議に思っているのだろうか。


「ちょっと、章嗣。アンタ、何を言って――」


「オレ、知っているんだぜ! 母ちゃん、何か重い病気なんだろ!? もう手術しても助かる確率は――」


「何処でそんなことを聞いたのよ!? バカじゃないの!?」


 姉ちゃんがあざけるように言った。まだ隠すつもりか、とオレは頭に血を昇らせる。


「たった今、姉ちゃん自身が口走っていたじゃないか! 廊下にまで聞こえる大きな声を出して、『数パーセント!?』って! 手術の成功確率なんだろ!? なあ、そうなんだろ!?」


 ふと素に戻った姉ちゃんは、母ちゃんと互いに顔を見合わせた。すると、こらえ切れずに、といった様子で、いきなり二人は吹き出す。


「プッ! くっくっくっくっくっ……違うわよ、バカねえ! それはアンタの勘違いだわ!」


 姉ちゃんは涙まで流して笑っていやがった。


 オレはうろたえる。


「じゃ、じゃあ……オレが来る前まで、何の話をしてたっていうんだよ!?」


「ああ、それはね――」


 姉ちゃんはひとしきり笑ってから息継ぎをした。母ちゃんは顔を伏せたまま、必死に笑いを堪えようとしている。


「実は母さん、最近、コレが出来たんだって――ああ、こっちか」


 小指を立てそうになったところをすぐ親指に変えて、姉ちゃんはニヤニヤと面白そうに言った。コレって、恋人のことか?


 まあ、母ちゃんだって、長い間、独身だったんだ。それに、まだ還暦を迎えていないが、近頃は連れ合いを亡くした高齢者同士が再婚するケースも多いとニュースなんかで聞く。“老いらくの恋” とかいうヤツか。確かに、そういう相手が母ちゃんに出来てもおかしくないだろう。これでも物分かりのいい息子のつもりだ。


「でね、その人と何処で知り合ったのかって母さんに訊いたら、“()()()()()()” だったんですって!」

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